イタリアにいると見ず知らずの他人と言葉を交わす機会が
多々あります。ずっと以前、そんな調子で人通りの少ない
都内の路地裏で前方を歩く人に駆け寄り、道を尋ねようと
したら、ドン引きされた記憶があります(苦笑)。
イタリアではなぜゆえ他人と話す機会が多いのか。
それは非常に単純な理由です。
ひとことで言えば「情報を得るため」。
あるべきものがそこになく、
起こるべきことが起こらないイタリアで、
権利を主張し義務を果たすには自分で正しい情報を
入手しなければなりません。これがけっこう大変です(汗)。
例えば。
ローマ郊外に暮らす私が利用する市内までの電車は
車内アナウンスがあったりなかったり。
ホームの駅名表示が少ないのはまだ許せても
車体の落書きで窓は真っ黒。まったく外が見えない。
これじゃ駅名チェックもできない。
必然的に、あちらこちらで言葉が飛び交います。
「私たち、今どこ? (Dove siamo?)」
固定資産税の支払いに行ったときも然り。
みんなして支払期日最終日に駆け込むもんだから
銀行は大混雑 (そんな私もその一人…苦笑)。
そして、なぜかそういう時に限って開いている窓口はひとつ。
さらにそういう時に限って(ではなく、ほぼ日常的か…苦笑)、
順番を示す番号札の機会が故障中。
必然的に、新しく人が入ってくる度、
「誰が一番最後? (Chi e` l’ultimo?)」
それを皮切りに、聞き手がいるんだかいないんだか
わからない他人とのおしゃべりが始まります。
「私が最後だから、あなたは私の次」
「その前があそこの白いTシャツの人で…etc….」
「違う、違う。その前はあの黒い服の…etc…」
「それにしてもなんで窓口がひとつしか開いてないんだ」
「私なんかもう1時間も待たされているのよ」
「昨日の郵便局でも…etc…」
答える人がいたり、いなかったり。
でも、喋ることが大事なので聞き手がいることは二の次。
それが一般的なイタリア人の特徴です。
このようにして、
いつまで待っても来ない電車に何か理由はあるのか、
それとも単に遅れているだけなのか、
とか、
自動販売機は故障、キオスクも昼休みで閉まっている。
電車の切符が買えない。
誰か余分に切符を持っていないか、売ってくれないか、
とか、
人だかりがあると、用もないのに、
ついでにわざわざ足を止めて、
「何かあったの? 何が起こってるの?」
と、周囲のヤジ馬に問いかけてみたり。
イタリアの日常において、表に出てなんらかの用事を
済まそうと思ったら、それがいいんだか悪いんだかは
別として、一人暮らしの老人であっても、日本のように
「今日は一日、誰とも口を聞かなかった…」
なんてことはごく稀なことなのです。
アッティコ・ローマ
村本幸枝